このコーナーでは、チャンプロードらしく昭和の不良文化論と題して「不良の愛した物事」をテーマに、懐かしのグッズから当時流行った出来事、さらに、影響されてた映画、テレビ、マンガまで、様々な切り口で「あの頃」を感じさせる出来事を解説していく。
昭和ヤンキー風俗
暴走族と「集会」について

 暴走族の集会は、決められた場所に集まることが目的だった。この「集会」という言葉を使いだしたのは、おそらく警察だろう。なぜなら、暴走族に属している彼らの間では、その行為のことを"ツーリング"とか"流し"などと呼んでいたからだ。 ではなぜ「集会」という言葉が定着したか? これはやはりマスコミが使うようになったため…というのが一番大きな理由になるだろう。

 暴走族が社会問題になると、集会という言葉が新聞や雑誌の誌面上でひんぱんにつるし上げられる様になった。世間一般に暴走族という言葉が活字としても広まり、特に彼らが集まることを指して「集会」と呼ぶようになった風潮から、彼ら自身もそれを好んで使うようになったのだ。
 差別用語ともとれる「暴走族」「集会」というワードは、彼らにとってはハクが付くというか、レッテルを貼られたことの証になり、逆に反抗心が増した。そして、これはチャンスとばかりにその人数と活動範囲を全国規模へと拡大していった。まさに水を得た魚のごとく増々広がっていくことになったわけだ。 暴走族は「集会」をかさねるたびに勢力拡大を図った。70年代からはじまり80年代に入るとクルマ、単車の改造もエスカレート。有力チーム、中でも武闘派と呼ばれるチームが続々と誕生し、弱いチームをどんどん吸収し、支部として傘下に収める活動が盛んに行われた。
 その模様は、ある種、戦国時代の国盗りにも似たものを感じるだろう。
 この時代、支部だけで50~100台は当たり前で、すべての支部が集まる連合集会においては、1000台にも及ぶクルマや単車が集まることもあった。また、各地でそれぞれ出発して走りながら合流する「流れ集会」というのもあって、これがはじまると国道は暴走族の車両でいっぱいになる……という光景が当時は頻繁に見られたものだった。 組織化によって台数が増えたことで、暴走族の走り方にも変化が出てきた。これだけの台数になると、走り方も考えなくてはならない。重視したのは、自分たちの身を守る方策だ。
 この状況から、機動力のある単車が誰よりも早く交差点に突っ込み、一般車の流れを止めて仲間を通らせるスタイルが誕生。信号が赤になろうと止めるものは止める、という「信号止め」を役目として務める者が登場した。 そして、パトカーが後ろについて来た時に、一番後ろでローリングをし、パトカーを足止めして仲間を逃がす「ケツ持ち」も同時期に誕生。戦国時代で言えば、さながら殿(しんがり)ということになる。
 このケツ持ちはチーム内で最も勇敢で走りのテクニックを持つ者が務めていたのは、言うまでもないことだろう。
 集会が開かれるのは土曜の夜がキホンだった。そこにはたまに、地元つながりで仲の良いチームが合流し、一緒に流しを楽しむ光景もあった。
 また、それとは逆に地元から離れている敵対チームとぶつかり、ケンカになる場面も多かった。特に正月集会、こいのぼり集会、七夕集会などの季節的な走りの時の県境では、乱闘騒ぎの抗争という場面が数多く見られた。 80年代から90年代にかけて、敵対しているチームの乱闘は日常事で、その因縁は先輩から後輩に受け継がれ、互いに一歩も引かない抗争を繰り返し何年にも渡って対立していたチームもあったほどだ。 それからしばらくすると、警察の取り締まりの強化、行為そのものの罰則、さらに、免許制度改正による締め付け等で徐々に暴走族が姿を消していったのは、皆さんもご存知のとおりだと思う。


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