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当時の不良、ティーンエイジャー達に一気にバイクが広がり浸透していったのは、'70年代後期に起こった400ccバイクの多様化と、それに伴う低価格化だ。バイクメーカーによる販売路線の拡大化が、その狙い通り見事にハマッた結果を見せたと言えるだろう。
不良少年達は、その威風堂々とした姿に痺れた。全国で同時多発的に暴走族が結成され、メンバーが100人を超えるような大所帯のチームも増えていった。そうなると、当然のように各地で衝突が起こる。中でも有名なのが、東京・神奈川の暴走族、計600人が衝突した鎌倉の「七里ヶ浜事件」、そして、極悪とCRS連合が衝突した「大井ふ頭事件」など、まさに血みどろの抗争も多く発生。国家権力を持つ当局も、事態を見過せなくなってきていた。
社会問題として取り上げられる契機となったのが、昭和51年の「神戸まつり事件」だ。群衆を巻き込んだ暴動が発生し、神戸フラワーロードは騒乱状態に。車は焼かれ、無数の喧嘩が随所に起こり、取材中の新聞社カメラマンが死亡する事態に至っては、警視庁も本腰を入れて立ち上がるほかなかった。そこで施行されたのが大幅な道路交通法の改正であった。

当時の危険な暴走族の姿、喧嘩上等、暴走と暴力に明け暮れた日々を過ごしていた時代に巻き起こった大事件は、なぜ始まってしまったのか? そこには、当時の暴走族という男達の姿と時代背景があった。
その規模においても、暴走族の歴史上、大きな意味を持っていたと言える七里ヶ浜事件。そもそものキッカケは、暴走族・神奈川レ−シング連盟の傘下だったピエロ/ホワイトナックルなどと東京山の手・三多摩地域を縄張りにしていたスペクター/ルート20/アーリーキャッツ/ブラックエンペラ−などが度重なる抗争による乱闘事件を起こし、双方に負傷者を出したことに端を発したという記録が残っている。



爆音と共に男達の荒れ狂った勢いと雰囲気に包まれる中、抗争で使うための木刀、角材、ヌンチャクといった武器が多数準備された。

東京グループの車両190台を集め、湘南方面に向けて移動。そして、神奈川グループは車両180台にメンバーそれぞれ分乗し出発。神奈川グループがちょうど城ヶ島を通過しようとした直後、「東京の奴らが来る」という第一報が入ってきた。神奈川に入ってきた以上、そのまま通すわけにはいかない、どのルートを通過するかを予測した探索が開始された。
一度火が入った勢いは凄まじく、東京 VS. 神奈川の大乱闘に発展する。そこに停めてあったクルマやバイクはボコボコにされ、海岸線の道路から海に投げ込まれる車両も続出。ガソリンの臭いに包まれる中、突然炎が上がって車両が炎上。その抗争を阻止すべく、警察も加わるが、さすがに600人規模の大乱闘は、そう簡単には止められない。その結果、警官5名を含む27名が大怪我を負った。また、車両についても四輪4台が大炎上して真っ黒こげに!! 他にも車両28台がウインドウを壊され、ボンネットやルーフが潰れるなど被害を受けたとされているが、実際にはそんなもんじゃなく、もっと多くの四輪・二輪が潰されていたそうだ。
この大乱闘の抗争事件、その規模も凄まじかったが、一方で逮捕者の数も凄かった。未だかつて、これほど多くの暴走族の一斉逮捕はないほど。その数なんと双方合わせて412名にも達した。